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No.14/2013年秋発行 
時計台(旧札幌農学校演武場)
創建135周年の歴史
 
 はじめに
 国内外で活躍する多くの偉材を輩出した札幌のシンボル、旧札幌農学校演武場(時計台)がことし創建135周年を迎えました。開拓使時代の明治から4つの時代をくぐり抜けた時計台は、その間幾度も移転論争に曝されますが、1970(S45)年、国の重要文化財に指定されます。札幌の域を超えて日本の宝となった瞬間でした。涼やかな鐘の音が市民に身近で誇りの文化遺産、時計台。節目の年を機会にその波乱に富んだ歴史の断片に光を当て変わらぬ意義を、本書で再認識します。
 創建から今年で135周年、いまは市民や観光客の間で「時計台(旧札幌農学校演武場)」として親しまれていますが、演武場が開業した当初、今のように建物から澄んだ鐘の音は流れていませんでした。演武場を建設した際、札幌農学校では頂塔の鐘を鳴らして授業開始時間を告げる計画があったとされますが、そもそも開拓使には、時計を演武場に設置し、学内外に時刻を知らせる構想はなかったようです。1878(M11)年、演武場の開業式に出席した黒田開拓長官は、新築の建物を視察した際の印象を周りの者にこう伝えたといわれます。「時計がないのはおかしい、至急時計設置を検討すべき」との内容だったといわれています。
 札幌農学校が北1・2条、西1・2丁目あたりから北8条に移転する際、演武場の時計は新校舎に取り付けるべく、さまざまに検討されました。しかし余りに大きく断念されたといいます。演武場は他の農学校施設同様、老朽化が顕著でした。移転時の演武場の様子については「幽霊塔のごとき」だったといわれます。まさしく当時の演武場、すなわち時計台はその存在そのものが“風前の灯”といった状態でした。
 この演武場の保存に積極的に動いたのが当時札幌区長の加藤寛六郎でした。加藤は演武場は札幌区民にとってかけがえのない宝であり、永久に保存したいとして札幌農学校と交渉。その結果演武場は札幌区が借用することになりました。その後新たな区長となった青木定謙の時代、札幌区が1000円で演武場を買収し、1906(M39)年、曳家の方法で現在地の北1条西2丁目に移転しました。移転後の演武場はしばらくの間公会堂として用いられています。
 演武場の現在地への移転は、それまでの「農学校の大時計」から「札幌区民の時計」への変化を意味することにもなり、いつとはなしに建物も演武場ではなく時計台と呼ばれるようになりました。時計塔は札幌農学校のシンボルであり、そこに学んだ人々は皆、演武場のホールで迎えられ、時計塔の鐘の音を聞き、講堂で学び、ホールで送られて世の中に出ていきました。演武場が現在地に移転して間もなくの1907(M40)年5月10日、狸小路から出火した火は西と北に拡がり、札幌区の中心部を焼失する大火となりました。その際、札幌郵便局も焼失したため、演武場(時計台)は一時期その仮庁舎として利用されています。(続く)

 No.13/2013年初夏発行 
丘珠空港
滑走路延長・ジェット化議論再燃!
 
 はじめに
 丘珠空港は、道都札幌と道内各都市を結ぶビジネスや医療などの「道民の足」として、極めて重要な役割を担っています。ANAの丘珠空港路線の全面廃止に伴って、いまや北海道エアシステム(HAC)路線だけで、そのHACも厳しい経営にあって、路線維持には喫緊の課題とされる丘珠空港の活性化が求められています。札幌中心部から直線で約6キロの距離にある丘珠空港は札幌市としても街づくりの観点から総合交通対策として重要な位置にあり、北海道との役割分担を図り丘珠空港路線の需要喚起が急がれる課題になっています。
 そうした中、丘珠空港をめぐっては、またまた動きが出てきたようです。一度は立ち消えたはずの滑走路延長・ジェット化が札幌市議会でも盛んに取り上げられるようになりました。これまでの札幌の都市計画では、空港を前提に進められてきただけに、滑走路延長・ジェット化問題は、空港の存続そのものとも絡んで、今後の行方が注目されています。
 札幌と丘珠空港路線の就航先地域との広域間交流の促進を目的に、丘珠空港発着路線の利用促進について幅広い立場から検討を行うために「丘珠空港路線の利用促進を考える懇談会」が設置されています。同懇談会では、そこでの議論やアンケート調査の結果分析などを踏まえ、数多くの提言を行っています。丘珠空港の優位性においては、都市周辺を含め240万人にもなる大きなマーケットがあり、新千歳空港と比較した場合でも時間的優位性があげられます。特に高齢者、病中者に優しい空港ビルのコンパクトや、また観光面での丘珠空港利用の拡大についての提言もされています。
 これに対し上田札幌市長は慎重です。丘珠空港は陸上自衛隊の共用空港であり、運航便数の制限など、さまざまな運用上の制約条件を抱えている空港です。将来展望で市長は、「これらの制約に加えまして、前回の滑走路延長時に100m延長して1500mになったわけでありますが、そのときの周辺住民の皆様方との合意内容、合意事項だとか、国の航空政策や航空業界の動向など、幅広い意見を伺い、またそれをしっかりと考えながら中長期的な視点に立って考えていきたい」と述べています。

No.12/2013年春発行  
札幌狸小路誕生140年の物語
札幌狸小路誕生140年の自負、ふたたび
はじめに
 東端の創成川から市道南2条南3条の西1丁目から西7丁目に面した総延長約900メートル、店舗数約200軒の全蓋アーケードを持つ「狸小路商店街」は、明治初期に数軒の商店・飲食店が建てられたのが始まりで、1873(M6)年の誕生のころには既にその一角が狸小路と呼ばれていました。それから2013(H25)年の今日で140年を迎えます。
 狸小路の周囲は、主要幹線道路・運河に囲まれ、官公庁街と薄野歓楽地に挟まれるという恵まれた立地もあって飛躍的に発展し、1885(M18)年には札幌初のデパート形式の商店の勧工場が開店しました。1892(M25)年には大火にも遭っていますが、その後の復活は勧工場などの商店だけでなく、庶民の娯楽、寄席が6軒にも及ぶ盛況ぶりでした。
 賑わいの絶頂期を迎えていた狸小路も1901(M34)年、札幌の歴史に残る大火で莫大な損害を被りました。それから6年後の明治40年5月10日の真夜中、今度は先の大火を上回る被害を出す火事に見舞われました。
 狸小路の大火は、明治期に3度も見舞われ、その都度、盛り場の多くを失い打ちひしがれましたが、商店街としての“地の利”は絶大で、罹災後1、2年のうちに次々と店舗は再建され、昼夜を問わず庶民の賑わいの場として復活しました。
 このように苦難と栄光の歴史を刻む過程で今日の繁栄を築いたのは、先見の明に満ちたときどきの指導者の果敢な決断と実行、そして商店街を形づくる人々の協同と団結の精神があったからだといえます。今においてもさまざまな専門店のほか飲食店・土産物屋が多く立ち並び、観光客が集まるスポットになっています。また近年では、閉店後シャッターが下りるとストリートミュージシャンの姿も目立つ場所になっています。
 そして今、2013(H25)年で誕生以来140年を迎える狸小路商店街がまた大きな節目に立とうとしています。想像されるのは狸小路商店街の隆盛に直結する商業環境の大変化です。(続く)
 
No.11/2012年発行
誇ろう・つなごう・札幌の自然
札幌は貴重な自然のウオッチング天国
 はじめに
 札幌は地理的に温帯と亜寒帯の境界に位置し、南方系の生物と北方系の生物が混在して生息・生育しており、大都市札幌の近郊にも関わらず動物種や植物種が豊富です。
 札幌とその周辺地域には大面積の森林があり、それは市域面積のうち森林面積が約60%を占めています。札幌の南西部の森林は、その多くが雨水を吸収して水源を保ち、あわせて河川の流量を調節するための森林としての水源かん養林、風致保安林などに指定されており、天然記念物、風致地区、自然公園、環境緑地保護地区などが含まれています。
 これらの森林は、自然の状態のままで、人手の加えられていない天然林の比率が高く、植生、鳥獣、昆虫、地質、地形などの点で自然性が良好に保たれ、多様な生物の生息・生育環境となっています。
 しかし、札幌は明治維新後の開拓計画から140年のほぼ1世紀半において、190万人の人口を有し、その間、市域拡大のため森を切り開き今日の街の姿になりました。街の拡大とともに森林が減少し、中でも市街地に接する山麓、台地、丘陵地の森林は減少の一途といえます。
 本書では、このように市域拡大が進む中でもいまだ自然が豊富な現状を、身近な動植物を再認識する中からあらためて自然環境を考えてみました。特に市内および周辺地域における野鳥や昆虫を直接観察することで札幌の自然の実態を知りました。都市を包み込んだ自然環境を積極的に保全することによって、自然環境を豊富に蓄えた札幌市を目指します。(続く)

No.10/2012年発行 
検証・北方領土とは何か
附属資料/関係・文書等、首脳会談等実績、主要事項年表 
◆国際法上も歴史的にも明らかな日本固有の北方四島
◆政治の狭間で翻弄される元島民たちの故郷への思い
◆プーチン大統領の再登場で局面の変化は望めるのか?
 戦後67年にして、今もなお未解決の問題として横たわる北方領土問題。グローバルな国際協調が叫ばれる時代にありながら、当事国の日本とロシアの間には平和条約が結ばれておらず、北方領土をめぐって相変わらずギクシャクとした関係が続いています。しかし領土問題は国家の主権にかかわる重要かつ基本的な国民的課題。プーチン・ロシア大統領が再登場し、国民や関係者の一部に返還に向けた期待も芽生え始めた北方領土問題について、多角的に真相に迫ります。
 なお、北方領土に限らずアイヌが千島・北海道の先住民であることを、日本政府は明確にすべきであるとした主張は、その事実とともに今日においても厳然としてあることを銘記しなければなりません。(続く)

No.9/2011年発行
3.11福島第1原発事故ショック
泊原発は大丈夫か?クローズアップされる安全性
はじめに
 原子力発電所の安全性は、もはや誰も「安全」だとは思うことはないでしょう。
 2011(H23)年3月11日、東北・北海道そして関東を襲った東日本大震災は、東京電力福島第1原子力発電所にも原子炉燃料のメルトダウン、放射性物質の外部環境への飛散という、日本の原発史上初めての恐ろしい被害をもたらし、国民を震撼させることになった。いまだ収拾がつかない状況にある。とりわけ原子力発電所の立地する全国の自治体住民は、“対岸の火事”と冷静でいられるはずはなく、戦々恐々の中にある。
 本道の場合、北海道電力(北電)の泊原子力発電所はどうなのか、大いに不安を感ずる人は多いと推察される。道の「原子力防災計画」は半径10㎞圏内の4町村を対象とし、北電の耐震安全評価も「85㎞沖合いの断層によるM8.2の地震、最大津波を9.8m」を想定しており、今回福島で起こった事実を考えると「想定外」とすることで割り切ることはできないはず。
 さらに北電は、2012年春にも泊原発3号機でプルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料として多量のプルトニウムを扱う強い発がん性のある猛毒のプルサーマル発電を開始しようとしている。
 こうした動きには、余市市議会が高橋はるみ知事に「北電泊原発の段階的運転停止と、同原発3号機で計画しているプルサーマル発電の撤回を求める意見書」を提出しており、知事にその意見書の趣旨通りのことを求めている。
 一方、札幌市も人口190万人を抱えており、泊原発から70㎞圏内にあることから、北電に対し「泊原発3号機で計画しているプルサーマル発電計画の凍結」を申し入れている。
 最近では、北電による泊原発3号機の営業運転再開に当たって、2008(H20)年当時のシンポジウムで住民をだましていたことが発覚、このほかにも北電による「やらせ」が続いている問題が起こっている。
 本書では、福島第1原発事故をきっかけに、“脱原発”の声がほうはい(澎湃)と湧き上がっていることを受け止め、そこでいま改めて泊原発の立地から今に至る経緯に光を当て、道民、札幌市民と原発との緊張関係の深層に迫ってみる。
 こうした危険を感じるこういうときこそ、札幌市が掲げている市民自治の基本を考えることになる。
 「すべての市民が平穏な暮らしの中で自己実現できる札幌でありたいという、一人一人の札幌への思いが、世界の人々が思い描く理想と響き合うことを願っています。そして、自らの権利と責務を重く受け止め、多様な人の縁と地域の絆を大切にして力を寄せ合い、まちづくりのために自ら主体となって選択し行動することにより、大都市でありながら一人一人の思いや声が調和の中で生かされる、市民自治を実感できるまち札幌を目指します。」(札幌市)
 まちづくりの最高規範として、ここに札幌市自治基本条例を制定(平成19年4月1日から施行)したのであって、いまその実践が問われているときといえる。(続く)

No.8/2011年発行
大通公園誕生100周年
雄大な計画から始まった/問われるこれからの大通
はじめに
 気ままに散策するような場としての大通逍(しよう)遙(よう)地として竣工した「大通公園」がことし2011(H23)年が100周年に当たります。
 札幌市を南北に分ける幅約65メートル、長さ約110メートルの大通公園。明治期から大正、昭和そして現在の平成と常に市民の憩いの場として都心のオアシスとして存在しているのが大通公園です。
 明治2年、開拓判官の島義勇が自らの北海道紀行誌の中で、まちづくりの構想を語っています。そのモデルを平城京、平安京につながる京都を想定していました。
 「いつかの日か札幌を世界の第一の都(他日五州第一都)に」と、その当時に大通公園に当たる「広街(広場)」を明記しており、現在地とは少し違いますが構想はその後に引き継がれています。
 大通を語ると必ず出てくるのが、火災時の延焼拡大防止を目的とした「火防線」の役割とする考えです。確かに大通が明治期以降、何度も防火の役割を果たし、大火から札幌をまもったことは事実です。火災発生をいち早く察知するため、大通り周辺を一望できる創成川ぶちに大正期に消防本部の望楼が作られています。
 本書では大通の位置づけを単なる火防線ではなく、当時の時代背景から南北を官用地と町屋地とを分ける分離帯と推察します。それは官用地の防護空間の性格を合わせ帯びた都市空間として配置されました。つまり、計画期のこの時代を考えると封建的な都市計画思想を濃厚に投影した広路空間として理解することが妥当といえます。
 札幌は1899(M32)年、自治体として認められ「札幌区」になり、当時の人口は3万人を超えており、一大消費地として繁栄していましたが、まだいまの大通公園につながるような逍遙地になっていません。
 大通は1905(M38)年、日露戦争のその戦勝記念として大通西3丁目から西10丁目にカラマツ苗を植えています。それから2年後、一民間人の小川二郎(札幌興農園創始者・札幌農学校11期生)が自費で大通を馬耕し花の苗を移植しており、今日まで続く大通の花壇造成の先駆者といわれています。
 大通は1909(M42)年、東京市から公園技師の長岡安平を招き、1911(M44)年「大通逍遙地」として竣工、ことしはそれから100周年に当たります。
 大通公園には、幸田露伴、国木田独歩、与謝野鉄幹・晶子夫妻…北海道、札幌を訪れた近代文学史上の名だたる巨人たちが当時の大通に足を踏み入れたに違いありません。そうした文壇人の中には、大通を主舞台に作品を生み出した人たちも多くいました。今日、大通公園に建立されている文学碑などにも、その足跡が印されています。
 一方で、今日の大通公園は「イベント過多」との指摘もあり、利用のされ方に疑問を呈する声さえあります。公園の歴史を考えると、今の有り様を含めた将来を思うと大いに議論を要することに必ずなるはずです。ともあれ100周年を記念いたします。(続く)

No.7/2011年発行
札幌のまちデータ集 1996→2010
はじめに                
 今日190万市民の札幌も、その一世紀半前までは石狩地方という広域の中にアイヌ民族が集団としてふつうの生活をしていました。当時の松前藩の強力によってそのアイヌ民族が次第に解体させられてきました。そうした侵略の事実を踏まえ、札幌そのものは、道外の古い歴史や伝統をもつまちと違い、独自のまちとして存在してきました。
 「新天地開拓だ」として、政府は外国から牧畜・酪農、鉄道、地下資源、果樹・園芸、キリスト教による高等教育のそれぞれの技術・識者を招き、その中心にホーレス・ケプロンを据えました。このように官主導で札幌建設が進められる中、その代表的なものにビール醸造が官営事業として北海道開拓史によってはじめられています。
 道外都市と違い新しいまちとして札幌が存在した中で、都心の風情には独自のものがありました。戦後一気に人口増とともにまちも変容してきますが、札幌を東西にわける大通公園は、花々と噴水と緑の木立、そこにはベンチがあり、人々の安らぎの場でした。そこには、とても近代都市化したビルの中にあると思えない独特の安らぎがありました。
 いまは、いつの間にか常時イベント広場になり、音楽ドームの占拠やビール園も大々的に店開き、それを風物詩としてもてはやし、とても安らぐとはほど遠いものになっています。
 四季の変化がはっきりしたまちは、常に次の季節を待ち焦がれることで、生活の張りや目標となりますが、しかし現実の冬は遊びにつながる親雪・利雪などに酔いしれているわけにはまいりません。道を歩くにもアイスバーンを滑り、人の移動も困難をきたし、積雪6メートルの大人口都市としては大変な厳しさを実感します。観光に来られる人々には、その厳しさが実質の売りとなるでしょうが、リピーター化は難しいと思われます。こうした厳しさがあるから春の光がどれだけ待ち焦がれるのか、ですから四季の移り変わり自体が生活の目標になっているといえます。
 今回、「札幌のまちデータ集」を作成しました。まちの移り変わりを数値でながめてみます。
 概ね1996年から2010年の15年間を27項目に分類し数値で表してみました。
「土地・気象」「気候」「人口」「産業」「経済」「市民経済」「運輸・情報通信」「道路・除雪」「公園・街路樹」「住宅」「保健・医療」「清掃」「上下水道・電気及びガス」「社会福祉/高齢者・国保・年金」「.財政」「学校」「コミュニティ施設」「青少年女性活動」「芸術・文化」「スポーツ・レク」「観光・イベント」「国際・地域交流」「消防・警察」「公務員・議会」など。
 この「札幌のまちデータ集」を参考にされ、札幌市のこれからを考える一助になれば幸いです。(続く)

No.6/2010年発行
さっぽろ「くらしのニュース」は時代の何を伝えたか?
44年間の紙面に見る札幌の消費者問題
はじめに
 札幌の街が創建されてから150年に満ちません。原田與作(よさく)市長の時代に創刊され、現・上田文雄市長時代に終刊となった毎月発行の「くらしのニュース」は、44年もの間に紙幅を積み重ね、じつに通巻517号を数えました。これは札幌の歴史の時間の3分の1近くに相当する驚くべきものです。これほどのロング・タームの市の発行物は「広報さっぽろ」を除けば存在せず、稀有な存在でした。昭和、平成の激動を見続けた「くらしのニュース」はその意味でも、札幌の歴史の“生き証人”でした。原田、板垣、桂、上田と4代の市長時代にわたって発行され続けた「くらしのニュース」。それは単なる消費生活情報紙の域を超え、時代の空気をもリアルタイムにいきいきと市民に伝え続けたのです。
 「くらしのニュース」発行と同じ年に「消費生活展」がスタートしました。このころは、技術革新の急速な進行に伴って消費経済や生活そのものが大きく変わろうとしていました。まさに消費革命といわれる状況にありました。この変化は、暮らしをゆたかにするとともに便利さをもたらしました。その半面、だんだん受け身になる消費者に主体性を取り戻さなければならないと、消費者による行動が求められることになりました。
 札幌市の消費生活展は、後に札幌消費者協会と共催して、より広く消費者に働きかけ、1987(S62)年からは消費者のお祭り「さっぽろ消費者まつり」として発展しました。その後、消費者・事業者・行政による実行委員会形式を確立し各参加団体からの協賛金などを得て、潤沢なほどに回を数えることになりました。
 そうした背景のもとで、賢い消費者を目指し「くらしのニュース」が創刊した秋、「生活を豊かにする・みんなの消費生活展」が丸井今井百貨店本館8階催し場で開催となり、6日間に延べ4万人の市民が来場しました。この消費生活展の開催により室蘭、旭川、釧路の各都市においても同様の催しが開催される運びになりました。
 しかし、「くらしのニュース」が創刊してから500号を数えた2008(H20)年秋には、第42回目に当たる「消費者まつり」が中止になりました。ここに先達が進めてきた消費者主体の事業が行政の手によって閉幕となりました。「くらしのニュース」創刊以降、4代の市長が消費者行政を進め、消費者主体の行動を着実に展開してきました。特に桂市長時代の1997(H9)年4月には、札幌市消費生活審議会から現在の消費者の拠点施設になる「札幌エルプラザ」につながる「『(仮称)消費者会館』に求められる役割と機能について」と題した答申が桂市長に提出されています。
 答申書における消費者行政の中枢施設である消費者センターの役割・機能の充実では、「消費者が必要とする情報が効果的に提供されることが必要である」と、当時の「くらしのニュース」の発行や消費者まつり事業などの消費者啓発事業の重要性を取り上げていました。現在の上田市長は当時、審議会の一員として、この答申者に名を連ねていました。
 現実は、大きく変わりました。「くらしのニュース」や消費者まつり事業がもっぱら市の経費面の都合だけで、一方的に幕を閉じたことになります。答申にある「啓発され、保護される市民」から「自らの関心・問題意識に立って学び、行動する市民」につながったと判断したのが上田市政なのか。
 いずれにしても今後の消費者行政の中に、その答えを見いだすことになるでしょう。
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No.5/2009年発行
札幌の路面電車とまちづくり~市民議論とは~
はじめに
 札幌市の人口の膨張に伴って、人口は次第に郊外に拡散してきました。本市の公共交通機関の中心であった「市電」が主役の座を「地下鉄」に明け渡すことになります。いまの市電の営業キロ数は8.5キロ、在籍車両30両、除雪車4両、2008年度は1日2万1000人を輸送しています。
 この市電も大正7年に札幌市内をはじめて走り、この年に「開道50周年記念北海道大博覧会」が開かれており、これを記念して電車の導入が図られました。そのときにイギリス製の車両を予定していましたが、間に合わず急きょ名古屋電気鉄道(株)から車両を購入しています。車両の変更は軌道間隔にも影響し、当初4フィート6インチ(1372㎜)が現在のJR在来線と同じ3フィート6インチ(1067㎜)になり、今日まで引き継がれています。
 市電の最盛期は1964(s39)年のころになり、7つの系統をもち営業キロ数が25キロ、車両数が142両、一日の輸送人員27万8000人を超えていました。
 このころ路面電車は本市だけでなく、市民の足として日本各地で利用されていました。 しかし戦後、車社会の到来でマイカーが増えると、多くの街で姿を消しました。むしろ消さないと、時代遅れのような認識で廃止が加速しました。それは間違いであったことは最近の世界的な「路面電車復活」の中で再認識されてきています。
 自動車と違って排ガスを出さず環境にやさしいことや、床が低いため高齢者などが利用しやすいこと、さらに、観光など街の活性化にもつながることから、欧米では積極的に導入する動きも広がっています。バスやマイカーなどの邪魔としての路面電車が、街の中における路面電車と共存として、まちづくりの視点での取り組みがいまや世界で進められています。
 札幌市はまだその領域には達していませんが、市電が走って約90年、多くの人々に認められた乗り物が、いまこの街でどう復活していくのか、本書ではこれまでの札幌市における市電の歴史と、最近の本市と姉妹都市(ミュンヘン、ポートランド)の動向を取り上げ、市電を考えます。
 今後の市電の復活議論、その中で参考になれば幸いです。

No.4/2008年発行
明治期の札幌まちづくり理念と内村鑑三
発刊に当たって
 1869(明治2)年に銭函に着いた島(しま)義勇(よしたけ)が札幌本府で最初に始めた「まちづくり」は、西蝦夷の門戸、小樽への道の整備でした。
 道を開くことが物資や人の流れにつながり、街の発展に欠かせない存在であると考え、先住民のアイヌをはじめ故郷九州やそのほかの地域からも1100人以上の人夫を集めて、銭函と札幌の双方に炎を焚き、道を築きました。
 しかし残念なことに道路が完成すると札幌は不景気になり、明治7年に佐賀の乱で島義勇は処刑されます。けれどその道により札幌は、現在190万都市にいたっています。
 2009(平成21)年の札幌は交通の便が整い、ビルや住宅地がかつての面積の数倍にも広がり、多くの人が暮らしています。
 その発展を遂げた札幌に対して、今なお「まちづくり条例」や「私たちの手でまちづくりを進めよう」と、「まちづくり」を呼びかけています。
 それは時に、犯罪のない社会、交通ルールが守られる社会、ごみの管理を自分たちの手できちんとする社会などですが、社会が複雑化しすぎて、まちづくりが本来どうあるべきか、見えにくくなっているようにも思われます。
 本書では、明治期のまちづくりが行われていく様を眺めながら、「まちづくりとは何か」をテーマとしました。
 第1章では、大正の初めごろまでの約40年間、札幌で開拓史が行ってきた事業をたどります。営々と街発展の火をともしてきた先人たちの苦難と試行錯誤の中、また明治期の幕末から維新にかけて登場した多くの人材が闊歩した街、札幌。高い志と堅固な使命感によって140年前にこの札幌が誕生しました。
 第2章は、1877(明治10)年、開拓期の札幌農学校に入学し、創成期の札幌で17歳~23歳を過ごした内村鑑三を取り上げました。内村は後年「札幌は従順なる官吏、利慾にたけた実業家は生んだが一人の人物をも一人の大学者をも出していません。私はクラーク先生の精神は札幌に残っているとは思いません。残っているのは名のみです」と、札幌を憂いでいます。またその一方で、誰よりも深く札幌の街を愛していました。ここでは内村鑑三と札幌の関係を、多くの資料から選び関連付けて整理を加えました。

No.3/2008年発行
札幌市平和月間「平和のつどい」報告集
 「札幌市平和月間」とは?
 1992(H4)年3月、札幌市は「人々が等しく平和に暮らせる世界の実現を願い」“札幌市平和都市宣言”を行いました。それから16年たった今年、上田札幌市長は、6月に「平和市長会議」に加盟しました。この会議は、1982(S57)年に悲惨な原爆の歴史を抱く広島市の荒木武市長が、第2回国連軍縮特別総会で提唱した「世界の都市が国境を越えて連帯し、ともに核廃絶への道を切り開く“核兵器廃絶に向けての連帯推進計画”」によって生まれた組織で、現在世界131カ国・2,368都市が賛同、加盟しています。
 この加盟を機に札幌市では、市民のみなさんにもっと平和について考える機会を作りたいと願い、原爆の投下された8月を札幌市の「平和月間」と定め、今年は北海道洞爺湖サミットの開催も考慮し、6月からさまざまな平和都市宣言普及啓発事業を行ってきました。
では、宣言からこれまでの16年、イベントとしてではなく、市民に、そして行政職員にどのようなメッセージを発信してきたのでしょうか。少なくともその総括の上に「平和月間」が位置付けられたと理解したいです。そこで、桂市長からはじまった平和の取り組みが、上田市長により8月を「平和月間」として再設定されたことを、ここで改めて考えてみます。
 当、札幌市政研究所はこの期間、「平和月間」事業の一環になればと、4夜にわたる戦争記録を見るつどいを開き、平和の尊さについて討議を進めてきました。
 また市長は、市民など大勢の人々に8月1日、「平和に思いをめぐらせる8月」と題し、市長のホームページ上で平和月間の意義を説いています。
 そこでは、次のように平和のことが語られています。

No.2/2008年発行
地域の拠点さっぽろの「まちづくりセンター検証」
はじめに
「まちづくりセンター」を知っていますか?
 札幌市内には2007年現在、87カ所の「まちづくりセンター」があります。この施設は2004年4月に約16億円の事業費を使い、以前からあった連絡所の名称を変え、再編スタートしました。
 まちづくりセンターは、それぞれの地域で行われているまちづくり活動をアシストする、コーディネーター的施設として設置されています。
 札幌市の人口は189万人を超え、従来のように町内会など地域の組織に属さない人や、地域に密着した人間関係を持たない流動的な人口が増えています。そのため行政では、まちづくりセンターを通じ従来の町内会を超えた組織も含めネットワーク化を進め、地域の情報伝達などに役立てる体制整備をはじめました。それぞれの地域にある連合町内会や単位町内会、ボランティア団体、PTAなどの住民組織をコーディネートし、くらしの中で起こるさまざまな問題を協働で解決するためのしくみとして、まちづくりセンターの機能化を図ってきています。
さらに、このまちづくりセンターを活用するための機関として、「まちづくり協議会」も市内に68カ所誕生しています。これは、連合町内会をはじめ、地域のまちづくりのために活動している民生委員や各小中学校・高校のPTA、地域の商店街、ボランティア団体、NPO法人などのコミュニケーションを円滑にし、市民自治をアシストすることを目的としています。
これらは、上田市長の選挙の公約であり、2007年4月に施行された「札幌市自治基本条例」に基づいて作られており、このセンターの目的が、私たちの生活とどう関わっていくのかが、今ひとつ具体的にイメージしづらいのが現状と思われます。
まちづくりセンターの課題
 札幌市は、市民自治によるまちづくりの実現を宣言した「自治基本条例」を2007年4月1日に施行されました。この条例は、自分たちのまちのことは自分たちで決めていくという「市民が主役のまちづくり」を目指すものです。そのために、「情報提供」と「市民参加」をまちづくりの基本においています。
 そのまちづくりの拠点を同条例第28条第1項では、「市は、まちづくりセンターを拠点として、地域住民との協働により、地域の特性を踏まえたまちづくりを進めるものとする」とした活動のベースを明確にしています。
 首長が桂前市長から現在の上田市長に交代したことで2004年4月1日から、従来の連絡所を名称変更などでまちづくりセンターに改編しています。
 従来の連絡所は「地区住民組織の振興、地区住民福祉活動の支援、住民票等諸証明の取り次ぎ、地区に係る市民要望等の集約、市からの連絡等の周知、併設地区施設の管理」を主な業務にしていました。
 まちづくりセンターに改編後は、「従来の業務に加え住民組織等のネットワーク化支援、地区のまちづくりに関する施策等の企画および推進に係る調整、地域情報の交流」を取り組んでいます。
 このように多岐にわたる分野を包括化して、地域内の組織の活動を連携させ、新規の協議会を発足させて、さらに各種市民組織との連携を目的にしています。
しかし、現実はこれらの業務を進めるスタッフ不足や権限がないなどの問題点があります。
本書では、「まちづくりセンター」の変遷を振り返ってみるとともに、札幌市が目指すセンターの役割を整理し、市民が自らのくらしにどう役立てていけばよいのかを、考えてみたいと思います。

No.1/2007年発行
世界的な札幌三大文化資産の再認識
はじめに
なぜモエレ沼公園、札幌芸術の森、PMFなのか
 約190万人の都市として世界に類を見ない多降雪の街、札幌。ひと冬を通しての降雪量は約6メートルに達します。厳しい冬があることで、明確な四季の移り変わりを体得できることにもなります。その札幌は、いまから約340年前の江戸時代に石狩川流域がサケの産地として記録されていますが、当時は先住民のアイヌ民族が居住していました。明治維新後の1869年(M2)以降、札幌の開発計画が進められてきました。
 そうした札幌の初期から今日に至るまで、いまの街の有り様がいまだ「まちづくり」として、行政から市民に議論が投げかけられており、まだまだ行く末が定まらないままで今を迎えており、これが北の理想都市を目指す札幌の姿なのです。
 ときどきのまちづくり討議では、「子孫のために100年後を考えたまちづくりに取り組む」と銘打つ場合がありますが、これではいつまでたっても100年後を迎えることになりません。
 今回、本書でとりあげた札幌が持つ芸術・文化資産の世界的といえる「三大文化資産」ですが、これらは札幌が明治以後、まだ140年程度の街の実績がない中で、いかに大きなインパクトのある市民的財産(ストック)であるのかを、多くのみなさんにあらためて知っていただくためにとりあげました。
 それは、「札幌芸術の森・野外彫刻美術館のグスタフ・ビーゲランであり、モエレ沼公園のイサム・ノグチ、そしてレナード・バーンスタインではじまったPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)」のことです。
 これだけの文化資産が札幌にあることは、ひとつひとつに経過があります。高度経済成長、バブル経済という時代の追い風を受けながら公共事業のあり方が「文化の公共事業」として導入されたこともあるでしょう。この三大文化資産のはじまりは、今から3代目前の市長であった故・板垣武四市長の在任期間の1972から1991年にすべての計画が実施されています。いまの札幌を大型公共事業で猛烈に立ち上げていった人といえます。
 その後の桂信雄市長、現在の上田文雄市長にこれらの世界的な三大文化資産が引き継がれ、それらのストックがここ札幌に存在する意義を見いだす役割を担い、あるいは担ってきた人たちといえます。
 しかし、現実は世界的な三大文化資産としての存在意義などが市民的にもまだまだ十分に理解される域に達することなく、一つの目標値としての「集客力」にのみ目が向いているように思われます。確かに、世界的にも国内的にもまだわずかですが、これらの三大文化資産を訪ねるツアー旅行などが行われているなど、そうしたことによる「集客力アップ」は否定するものではありません。むしろ札幌にとっても歓迎すべきことです。
 本書では、これだけの世界的な文化資産を有する札幌市、それらの資産活用が市民生活の中でどれだけ認識され浸透しているのか、市民にとって芸術・文化に関係なく生活が続いているわけですから、そうした中でこれだけの文化資産が存在している精神的な意義を考え、あらためて再認識するとともに札幌市が目指すあらたな課題、そのための端緒になることを、ここで提起できればと考えます。

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