市政研bookletの概要(2)

市政研bookletの概要(1)
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No21/2015年夏発行 
札幌の文化財と文化行政
今・文化財・文化遺産の利活用の手腕が問われている!
はじめに
  「明治日本の産業革命遺産」が国際機関から世界文化遺産の登録勧告を受けて、このところ文化財・文化遺産への関心が高まっています。歴史が浅い札幌市にも文化財・文化遺産は数多く存在します。国、道、札幌市指定の文化財はもとより、ふだん何気なく見過ごしている民家や路傍の碑(いしぶみ)も見受けられます。文化財探訪は日常を非日常へと変化させ、生活に質的な変化をもたらし人生を豊かにします。文化財への関心が高まる今、札幌市の文化行政を点検しつつ市内の文化財、文化遺産を本書により俯瞰(ふかん)します。
 現在、札幌市は全国5大都市の一つに数えられますが、いまだに博物館がありません。全国の大都市には仙台市博物館、横浜市歴史博物館、名古屋市博物館、神戸市立博物館、福岡市博物館などがあり、最近では教育目的のほかに文化や観光振興の役割を持った公立博物館も増えています。
 「札幌市博物館計画推進方針」では「開館準備活動自体が博物館活動である」との趣旨になっていることから、この考え方に基づき2001年11月より博物館活動センターが開設されています。
 札幌市の施策には、「創造性あふれる文化芸術の街 さっぽろ」をテーマとした新たな「札幌市文化芸術基本計画」があります。そこでは、「文化遺産や自然遺産は今日の札幌を知る上での貴重な歴史的・学術的資料であり、札幌の文化の出発点をなすもの」として、その重要性を指摘しています。
 また、札幌市内には先の大戦における戦跡が数多く存在しています。「戦争があった現実」を知る上で身近に存在する戦争遺跡(戦跡)には貴重な「文化的価値」があります。今年は戦後70年の節目の年。識者やマス・メディアにおいて「戦争」をめぐる議論が活発ですが、札幌市は1992(H4)年3月30日、「札幌市平和都市宣言」をしたまちです。市内にわずかに残る戦跡が「どんな役割を果たしたのか」を改めて知り、その存在を記憶にとどめることの重要性が増しています。
 日米開戦の前年1940(S15)年、日本国内は東部、西部、中部、北部の4軍管区に区分され、軍司令部が置かれました。このうち北部軍司令部は豊平区月寒東2条2丁目(現在の月寒中学校敷地内)に置かれました。その2代目司令官の樋口季一郎中将は、満州在任時代、ナチス・ドイツの迫害を逃れて逃避行を続けていた大勢のユダヤ人を助けるために尽力したといわれます。当時日本はドイツと軍事同盟を結んでいる中のことですから、人道主義に基づく勇気に満ちたものでした。
 新たな札幌市文化芸術基本計画においては施策の一つとして「文化遺産・自然遺産の保存と活用」が取り上げられ、重点取組事業として「(仮称)札幌博物館計画の策定」「文化遺産の保存と活用」が盛られています。都市のアイデンティティーの源泉である“札幌らしさ”“札幌の個性”をつくり出すものは何なのか。いま改めて札幌のまちの歴史や文化を形づくり、苦心の末に継承されてきた文化財・文化遺産の意義に視線を注ぐと同時に、芸術文化の振興・発展に当たっては、「新しいもの」「古いもの」のバランスを常に念頭に置いた文化行政の推進が強く求められています。

No.20/2015年春発行 
札幌の自然災害と防災対策
道都・札幌にも「天災は忘れた頃にやって来る」
はじめに
 政府の「地震調査委員会」は2014(H26)年12月、今後30年以内に震度6弱以上の地震が起きる確率を「全国地震動予測地図」で公表しました。その2014年度版によると、石狩(札幌)が30年以内に震度6弱以上の地震に見舞われる確率を0.9%とし、前回の公表時よりも0.3%アップしています。道内で最も高率なのは根室の68%です。「確率0.9%」の数値といえども近い将来、札幌にも大きな揺れを伴う地震が襲う可能性があります。
 札幌市防災会議がまとめた直近の被害想定によると、仮に想定される直下型地震が起きると、厳冬期の最悪のケースで死者8千人超、建物・ライフライン被害などによる経済被害も6兆円以上という気の遠くなるような数字がはじき出されています。このように札幌も甚大な被害を伴う自然災害から決して無縁ではないのです。
 同会議が想定した地震は全部で5つあります。一つはマグニチュード7.5クラスの海溝(プレート)型の「苫小牧沖」地震。残る4つはいずれも内陸型で、そのうちの一つはマグニチュード8.0クラスで札幌市周辺の活断層のうち市域に大きな影響を及ぼすと考えられる「石狩低地東縁断層帯」地震。残る3つの内陸型地震はいずれも伏在活断層によるもので、マグニチュード7.5クラスの「野幌丘陵断層帯」地震、マグニチュード7.3クラスの「月寒断層」地震、そしてマグニチュード6.7クラスの「西札幌断層」地震です。3つの伏在活断層は、札幌市域における地下構造調査から判明した地層が波状に変形した褶曲(しゅうきょく)構造や、地震観測結果などをもとに札幌市防災会議が独自に設定したものです。
 このように災害はいつかは来る、それに手をこまねいているわけに参りません。予知の困難な大地震への一番の備えは、“いざ”の時にも被害を最小化するための「自助」「共助」「公助」による「地域防災力」の向上が肝心です。そして何よりも大切なのは、札幌に多い風水害や地震など自然災害への関心を持ち続けることです。今年は「阪神・淡路大震災」から20年の節目の年。これを機に本書では、札幌市の自然災害と防災について取り上げてみました。

No.19/2015年冬発行 
メガ歓楽街・ススキノ発展小史
それは官設「薄野遊廓」から始まった
はじめに
 新宿・歌舞伎町などとともに“日本三大歓楽街”の一つ、薄野を抱える札幌市。ネオン煌めく不夜城・薄野はいつの時代も訪れる人々の喜怒哀楽に寄り添い、想いのこもった酒をグラスに注いできました。開拓使時代に官設による遊廓地帯として身を起こした薄野には全国に名だたるピンク街としてのDNAも受け継がれ、他の店々と渾然一体となった不思議な街の魅力を醸し出してきました。明治期、遊廓時代からの薄野の過去帖をひもとけば、札幌の意外な歴史の断面が見えてきます。
 かつて薄野にはバブル崩壊以前の最盛期にはおよそ5000軒の飲食店があったとされます。しかし日銀札幌支店が出した北海道金融経済レポート「すすきの歓楽街の変遷と最近の動向」によると、2008(H20)年の薄野の飲食店は約3500軒。1989(H元)年と比較すると14%ほど減少しています。
 北海道に開拓使が置かれるまでの札幌中心部は葦が繁り、樫の大木が疎林をなしていました。それが札幌の地に開拓使が開庁したことで、北海道の首都としての建設が始まり、開拓史による事業が次々と着手される中で多くの雇用の場が生まれることになりました。当時の岩村判官は1871(M4)年、南4条~南6条に薄野遊廓を設けています。その後、公娼制度が設けられています。現在につながる盛り場・薄野の開基は1871年9月3日になります。薄野遊廓の芸娼妓は多いときで300人を超えており、さらに札幌初の芝居小屋、秋山座も設けられるほどの歓楽街を形成してきました。
 薄野開基からおよそ145年。一時期の勢いは衰えたとはいえ、今もなお薄野の街は東京新宿・歌舞伎町、福岡・中洲とともに「日本三大歓楽街」の一角を占める札幌のシンボル歓楽街であることに疑いはありません。そして今こそ薄野は、夜の歓楽街に客が求めるもの、即ちサービスの原点に立ち戻ることが不断に求められていると言えそうです。
 都市における歓楽街の賑わいは、その都市そのものの元気のバロメーター。幾多の歴史に彩られた薄野がいつまでも活気みなぎる街であってほしい。それは多くの市民、観光客らの願いに違いありません。

No.18/2014年秋発行 
札幌農業 隆盛と衰退の140年
190万都市農業に元気な明日はあるか!?
 
 はじめに
 明治初期、開拓使と札幌農学校を両輪に計画的に始まった札幌の農業は、本州とは違った洋式農業の積極的導入という特異なスタイルで日本農業史上、さん然と輝く歴史を誇っています。それからおよそ140年。札幌の農業はいま、大きな岐路に立っています。
 札幌の本格的なまちづくりは1869(M2)年の開拓使の設置により始まりますが、こと農業に関していえば、それよりさらに10年以上も前、つまり今から150年以上も前から足跡を残しています。いわば札幌の“農業前史”とも言うべきものです。
 1876(M9)年8月14日、現・北海道大学の前身である札幌農学校が開校します(当初名は札幌学校)。教頭(実質的な校長)は開拓使が白羽の矢を立て招いたマサチューセッツ農科大学学長のW・S・クラークです。休暇をとっての札幌農学校教頭就任でした。
 開拓使官吏や外国人教師、生徒らが参集して行われた開校式で、1874年8月に開拓長官となっていた黒田清隆は、式辞の中で「わが国の農業は従来ただ経験のみを頼りとしてきたが、いまや学理に照らして面目を一新すべきときである。これはただに本道のためばかりではなく、広くわが国全体のためである」との内容の言葉を述べ、クラークも「教育に力を注ぐことは、各国政府みな同じである。しかし農学のごときは最新の学問である。しかも開拓使が率先して、ここに農科大学を開いたことはまことに偉大である」と生徒らを激励しました。クラークが札幌農学校を“偉大”と称えたのには理由があります。東京大学農学部の前身である駒場農学校が在来農業の改革のために開校されたのが1878(M11)年1月。札幌農学校は日本で最初の高等農業教育機関として設置されたのでした。(続く)

 No.17/2014年夏発行 
札幌観光解体新書2014
「観光」は21世紀・札幌の活性化の“エンジン”になれるか!?
 
 はじめに
 経済波及効果が大きく札幌のまちの発展に欠かせない観光の役割が急速に増しています。国も“観光立国”を掲げ訪日外国人観光客のさらなる増加に本腰を入れ、札幌市もこれに呼応するように消費額単価が高く経済効果の大きい外国人観光客の誘致に積極的に取り組み始めています。札幌観光の振興で大きな鍵を握る道外観光客の誘致は厳しい都市間競争に曝されていますが、札幌市は2013(H25)年からの10年を計画期間とする「札幌市観光まちづくりプラン」を策定し、札幌観光のレベルアップを図ることで道外観光客,外国人観光客のさらなる取り込みを目論んでいます。
 2013年に海外から北海道を訪れた外国人観光客数が前年度比で34.2%増の101万4700人となり、初めて100万人を突破しました。札幌市内の宿泊した外国人は前年度比54.9%増の105万5000人で過去最多を更新しています。訪日外国人旅行客の増加目標により、観光産業の経済効果は、旅行産業や運輸、および宿泊産業のみならず、飲食や物販などさまざまな産業への波及が見込まれます。
 一方で「観光客増加に結びつかないイベントへの対応」「札幌広域圏観光への札幌市のリーダーシップと貢献拡大」「ラーメン・時計台・すすきのといった札幌観光の定番イメージからの脱却」などクリアすべき課題も少なくありません。
 市民にとっては当たり前のこと、ありふれたことでも、道外や海外の人たちには珍しいこと、魅力的なことが札幌にはたくさんあります。重要なことは消費者目線、よそ者・若者・女性目線で、今ある「モノ」や「コト」を再評価し、人々の欲求を満たす札幌ならではの“本物の価値”を掘り起こし磨きあげ、“オンリーワン”にすることです。そのた大勢の中のひとつ程度の“ワン・オブ・ゼム”では札幌の観光も厳しい都市間競争に置いていかれます。
 「寒い」「遠い」「(旅費が)高い」という三重のハンディを抱えながらも「わざわざ行くだけの価値」を身につけることこそが札幌観光の最大のツボであるということを、いま改めて考えるべき時期に来ています。
 本書では、日本そして国内諸都市が「観光」を巡って沸騰する今、札幌観光の現状と課題、展望について取り上げてみました。

No.16/2014年春発行  
2014まちづくり札幌市民アンケートの結果
札幌市政研究所独自調査
はじめに
 札幌市は最近、2022年度に向け「札幌市まちづくり戦略ビジョン」を発表しました。かつて青年都市と言われた札幌市は、いまでは人口減少や高齢化により、社会構造はじめ経済情勢が大きく変化し、今後ますます市民生活のくらしに影響することが予想されます。そこで札幌市政研究所では、札幌市のこれからを想定してまちづくりを考えるため、まちづくり札幌市民アンケート調査を300人を対象に実施しました。
 調査は、札幌市の「愛着度」「住みやすさ」さらに「これからも住み続けたいか」などでそれぞれ理由を尋ねました。また、イベントが多い大通公園などの「都心部の関心度」でも聞いています。札幌市は2007年4月1日に自治基本条例を施行しており、その理解や活用にもつながる設問では、今後のまちづくりに関する「市民と行政の関わり方」や、「行政と協働する機会があった場合」について聞きました。
 市域の土地の有効活用は、市街地の特性を踏まえながら、秩序ある街並みの形成を図るうえで大切です。ここでは札幌の長期計画において必要な「土地の利用」と、市街地の「建物利用」を聞きました。それらに関連して、「道路や公共交通の整備・充実」「公園や緑地」「都市の防災対策」でも尋ねていまする
 市民は市政動向を的確にタイムリーにいつでも行政情報として、認識できる立場にいます。札幌市では毎月広報さっぽろがそれに当たります。これをどの程度「読んでいるか」などで尋ね、広報の充実のため日ごろ感じている記事などの「掲載希望」も尋ねました。
 泊原子力発電所から近い札幌市は、原子力発電所(泊原発など)について、行政方針として「脱原発依存」をかかげていますが、それに対する考えを今回聞きました。
 以上の設問に対しての結果の特徴点を概観すると、次のようになります。(続く)

No.15/2014年冬発行
札幌オリンピック・ラプソディー
札幌の地で2度目の冬季オリンピック開催はあるのか?
はじめに
 上田文雄札幌市長は2020年夏季オリンピックの東京開催決定を受けて、再び冬季オリンピックの札幌招致に向けて検討を始めています。2013(H25)年9月25日に開催された市議会第3回定例会で冬季オリンピックの誘致についての代表質問で、上田市長は「オリンピックは札幌の魅力をさらに高め、まち全体を新たなステージに押し上げる大きな力を秘めている」と指摘したうえで、「経済界を含め市民議論を深めていきたい」などと答弁しました。オリンピックというビックイベントは、趣味や道楽からではないとは言え、時の為政者にとってオリンピック開催ほど魅力に富んだものはないようです。
 なんと言っても1972年冬季オリンピック札幌大会実現の立役者は、原田與作札幌市長です。原田市長は、その回顧録の中で戦災も災害も受けなかった札幌市は「自力で近代都市への脱皮を図らなければならなかった」「札幌を中心として冬季オリンピックが開催されることになれば、自ら都市施設整備のために国費の導入や、札幌市に対する特別の財政措置がとられるであろうと考え、その誘致に力を入れることにした」と述べています。現状を正しく把握し先見性に富んだ政治家の見方でした。オリンピックによって札幌のまちづくりは20年早まったと言わせるほどでした。
 その後、冬季オリンピック札幌大会の際に作られた施設などを用いて幾つもの国際大会が開かれました。先のスキージャンプワールドカップ以外にもアジア冬季大会(1986年・1990年)、ユニバーシアード冬季大会(1991年)、FISノルディックスキー世界選手権(2007年)、アイスホッケー世界選手権(1975年・
2008年)などです。札幌市はオリンピック開催により、名実ともに冬のスポーツ都市の地位を確立したのでした。
 しかし冬季オリンピック札幌大会は、(続く)
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